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2011/08/26

Z-01-0 福島市在住・マンション管理士の体験談(全文)

2011年08月26日寄稿
福島市在住マンション管理士

私は福島市で30数年不動産業を営み、その傍ら事務所をおくマンションの管理組合を顧問としてフォロ-しています。3.11東日本大震災の日以後、福島の住民の日常は激動しましたが、以下、私の震災時から現在までの体験、またマンション管理士としての取組の一端と感想をレポートします。

(その日の私の体験)
あの日東日本大震災がマンションを襲った時、今までとは明らかに違う突き上げる鳴動が私を外へ外へと促しました。私が仕事をしている事務所は14階建マンションの1階にありますが、地盤がよいせいか、少々の揺れでは即座に気がつかないことも度々です。それだけに常日頃から大地震の時に万が一にも外へ逃げ遅れて下敷きになるのだけはゴメンだと思っていました。ただし、闇雲に外へ飛び出してガラスや看板等の落下物にやられる危険も怖いと頭に置いていました。しかしその時の揺れはそんな予備知識や先入観を一切忘れさせ、とにかく恐怖の一心で、マンションから通りへ飛び出してしまいました。

私と同じように近隣のビルや商店からも多くの人達が通りに出て来ていました。この通りは両側に広い歩道付きのメインストリートですが、行き交う車も揺れの大きさに当惑してストップしていました。

今までの経験は大概は通りに飛び出した辺りで揺れが収まり「今の地震は強かったなあ」というところですが、付近の建物が激しくきしむ音と突風を伴うような揺れがますます強くなって行きます。マンションから歩道へ飛び出した私達ですが、これにはたまらず無意識に建物から遠ざかるように多分フラフラと車道へ迷い出てしまいました。誰からともなく「もっと広い所の方がいい」の声に導かれて、交差点斜向かいの市営駐車場へ逃げました。そこへ着いてそろそろ収まると思った揺れが再度激しく始まり、逃げる我々をどうしてもやっつけずにはおかないというように激震が続いて止みません。私達はとても立っていられず伏せの体勢で、見知らぬ人とも手を取り合って何とかこの窮地をやり過ごそうと懸命でした。激しい揺れのためにビルや建物がざわめき、うなり声を上げるとも又突風が吹くかのような光景は、昔映画で見たワンシーンのように鮮烈でした。ようやく長い揺れが収まり、「仙台沖が 震源らしい」、「震度6強だと」、各自が激震のショックを引きずったまま、まだ事態の重大さが飲み込めてはいませんが、次の行動に移り始めました。

私もマンションに戻り事務所内をざっと見渡しただけで、自宅の様子が心配ですから、急いで車を出しました。これもこのような時には褒められた行動ではありませんが、共働きで我が家は無人なのです。地震後すぐに停電したため信号機が点いていない国道は大渋滞が予想されます。迂回路を巡り巡って自宅にたどりつきましたが、途中何度も車がバウンドするような強い余震があり、およそ平常心には程遠く身の置き所のない道程でした。

自宅は外見は無事でしたが、中に入ると液晶TVが倒れサイドボードから酒瓶やグラス類が飛び出し居間や台所は惨憺たる有様でした。2階も整理タンスが半分倒れかかり、洋服タンスがフロ-リングの上をすべって移動していたりで、今までにはない惨状でした。とりあえず足の踏み場を確保するために、台所や居間に散らばり放題の割れたガラス類を片づけましたが、我が女房はバス通勤ですから迎えに行ってやらないと帰って来れないでしょう。家の中を片づけている間も何度か強烈な余震が襲いましたが、その度に家全体がバウンドしているような突き上げ感に年甲斐もなく正直怯えました。事務所のあるマンションに戻って、携帯での連絡はとれませんでしたが、ここでしか落ち合えないと考えて会社を早々に退けてきた妻を無事に拾い、再び我が家に向かいました。高層ビルの中にある妻の職場では、その時、机、キャビネット、PC類がメチャクチャに暴れ動き、妻をはじめ執務中の職員は机の下に潜り込み掴まれるものになんとか掴まって、やり過ごした状況だったようです。マンションでもビジネスビルでも高層階の建物では階下に居た私達が経験したものとは違う恐怖の体験だったと思います。その夜は何度も今までならば本震に匹敵する強烈な余震に襲われ、その度にヨーイドンで戸外に飛び出すのですから、寝支度を整えるなど到底考えられるものではありません。たとえ我が家であっても数日間は避難所と変わらない雑魚寝生活になりましたが、TVのニュースで見た津波にさらわれた人達のことを思いやれば、私達はましな方だとつくづく思ったものです。

翌日、事務所のあるマンションに向かいました。誰もが、これから一体どうなるのか誰も見当がつかず、どう行動したらよいのか手探りの週末だったと思います。事務所内の倒れたPCディスプレ-や空気清浄機が作動するかを確認し、乱雑なままのデスク上を片付けて自分だけの整理は程なくスタンバイできました。電話や携帯はほとんどつながりませんから、顧客からの連絡がなく此方からも取引先へ連絡をとりようがなく、暫くの間は物件の被害確認以外は仕事になりませんでした。市内に数十棟あるマンションの中には、新築後間もないにも拘らず外壁の剥落や亀裂が入ったものや、共用廊下の壁が鉄筋むき出しになる程ひどい被害を受けたものも数例ありました。その他、戦前から残る古い建物は激震に到底持ちこたえられずに今回全壊に至るものもありましたが、全般的には早期に平穏を取り戻している様子です。深刻な被害を受けたマンションでは一時避難生活を余儀なくされたりする例もあった一方、当マンションは敷地の一部に若干の陥没が生じたのが目立った被害で、震度6の揺れが数分間も続いたことを思いやれば、このマンションの住民は堅固な鉄筋コンクリ-ト造の建物に住む心強さを再認識したことでしょう。


(インフラ停止)
震災当日の停電はその日の夜までにはほぼ復旧しましたが、逆に水道は深夜から使えなくなっていました。自分の飲み水は持参したのですが、マンションは受水層にまだ残りの水がある為断水にはなっていません。マンションの住民達によると、上の方の揺れは相当なもので生きた心地がしなかったと口々に話してくれます。ただし電気はすぐに使えるようになっていたので、一時の大騒ぎで済んだかのような案外のんびりした雰囲気でもあります。今は受水槽のおかげで水が出ているせいで、自分等もホントにまもなく水の苦労が始まることを未だ理解していないようです。直接話のできる住民の数は知れていますから、管理員に指示して、市内全域が断水であること、当マンションも受水槽がまもなく空になり断水になることをエレベ-タ-前に貼り出しました。こんな時は浴槽の残り湯だって捨てずにとっておけばトイレを流すのに活躍できますから、事前の情報は絶対に大切です。案外、市内の全域が断水であることは聞いていても、自分のマンションは出ているから大丈夫なんて安易に思っていたりするものです。その翌日からは受水槽内の残り分も使いきり、当マンションも等しく断水生活が始まりました。給水時間を待って指定の給水場所に並ぶ、持参の容器に水を満たして帰って来る、それを高層階のマンション自室に運び入れる、これが一日に数回の日課ですから、このために生きているような‥‥。これで停電が続いてエレベ-タ-が使えなかっとしたら、若者だって「もうマンションは嫌だ」と恨み節が出るでしょうし、老人では到底続かなかったでしょう。飲み水や調理に使う位の水の量は買っても貰うために並んでも調達可能ですし、フロや洗濯は少しは我慢していられますが、やはりトイレの流し水の不足が最大の問題になって来ます。

震災後3日目頃から地元の消防分団が河川からポンプで水を汲み上げて来て、詰所前で生活用水として配布しはじめました。断水はいつ解消するかわかりませんから、これは大変役に立ちます。マンションの住民もバケツやらゴミ入れまでとにかく沢山入るものを持ち出して何度も貰いに行っていました。これは実に気の利いた試みで本当に大助かりなのですが、高齢者にはやはり大変な仕事です。そこで、管理員に指示して、マンションのゴミ保管用で使っていない大型ポリバケツを台車に積んで、住民用にまとめて貰って来ることにしました。

消防団にマンション住民特に高齢者のために利用するものであることを説明して協力をお願いし、集合玄関前に設置したものです。当然約80世帯のニ-ズは大変なもので、断水が解消になるまで用水の補充が管理員の一番の仕事になりました。たとえマニュアルにはなくてもその場その時に何が必要か何が求められるかを考え、たとえ小さなことでも実行に移して行くことが大事なことです。


(管理会社の不在)
当マンションも管理会社に全面委託をしているのですが、この間、その西日本本社、仙台支店ともに、音信不通で全く存在感がありません。管理員は通常の決められた仕事以外には気が廻らず、機転の効いた行動ができません。私に指示権限はありませんが、この場合そんなことを言って居られませんから、揚水ポンプの停電時、復旧時の電源オン・オフを指示したり、日頃全く使用していない集会室を居住者の便利に開放する等、考え付くことを実施して行きました。その後数日して管理会社のフロントから電話連絡がありましたが、その言うことは、要は動けない、申し訳ないというだけです。当マンションのように被害が軽微であったから事なきを得ていますが、こんな時だからこそ多方面のトラブルに対処できるホ-ムドクタ-役として地元の業者が管理に関わっていない場合は、マンション住民は困ってしまうなとつくづく感じたものです。事実、3月の定例理事会は、フロントが来られる見込みがない等の事情と大震災という時節を考慮して、マンション側から中止を管理会社に進言せざるを得ませんでした。本来であれば、非常時にも拘らず為される諸決定や住民へのアナウンスは、日頃ともすれば無関心に流れがちな住民に、理事会活動を通して、マンション管理の重要性を認知してもらう絶好機になるのですが・・・・。

水道等のインフラが正常に戻り食料の買出しも必要がなくなった頃、フロントが来る代わりに西日本本社の面々が当マンションの住民宛てに“慰問袋”を持参しました。その内容は、非常用飲料水ボトルが数ダース、即席めん、チョコ等の菓子類ですが、これが断水時や震災直後の買出しに明け暮れていた時であれば、タイムリーヒットに感激したことでしょう。この間、住民からは「管理会社の顔が見えない」「いつも大事な時の立上がりが遅い」、いろいろな批判が出ていました。誰もが先ず自分の家族の生活を確保しなければならないのはやむを得ないと理解するとしても、住民は直接声高に非難することを差し控えてはいますが、気の抜けたソーダ水のようなサービス感を受けたのだと思います。そしてフロントが当マンションに現れたのは3月末でした。


(さあ、生活再建そして復興なのですが・・・・)
市内全域の水道は10日前後で復旧しましたが、震災直後から深刻だったガソリン不足はいつまでも解消せず、被災都市の住民の再起を妨げました。乗用車の使用を極力控えていたのでは足を確保できず、本格的な復興はなかなか進むものではありません。しかしこうした事態も政府の被災地優先の特別措置がやがて効き目を現して行きましたから、本来であれば順調に上向いて行くのが通常のストーリーです。

ところが、福島には岩手や宮城の他の被災地とは違う特殊な事情が震災当初から生じていました。インフラ停止や飲料水・食料の買出し、ガソリン不足は忍耐強く克服されても、原発の水素爆発、それに続く大量の放射能飛散には対処するすべを持ち合わせません。震災当初、断水と放射線汚染を恐れ、他県の実家や親類を頼って或いは先方から促されて、マンションを離れ一時疎開する住民が多数いました。管理組合の役員の中にも「すみません、暫く留守します」と本当に申し訳なさそうにマンションを離れる人がいましたが、それも無理からぬ事でした。もっとも、当地の平穏が取り戻されて行くのを人伝に聞いて、やっぱり元の生活に戻ろうと多くが還って来ました。やがて、放射線汚染の問題の深刻さがマスコミを通じて徐々に明らかにされて行き、またインフラの復旧等トラブルが解消されて来ると、原発問題だけが否が応でも身近にクロ-ズアップされて来ました。マンションのある住民は、津波で亡くなった宮城県内の親戚宅を見舞いに訪ねた際、逆に「これから福島に住むあなた達は大変だ」「頑張りなさいよ」と同情され励まされて来た、と嘆いていました。

原発の水素爆発と大量の放射能飛散のあった当時、その本当の恐ろしさを知らされていない私達は愚かにも飲料水を求めて日夜給水場所に行列していました。足を確保しなければ仕事にもならないし、万が一の時遠くに逃げることもできないから、15㍑程度のガソリンを求めて生真面目に戸外で何時間も待ったものです。それを数ヶ月経ってから、あの時どうしていましたかなんて、今更健康調査のアンケ-トをとるとか、ふざけた話ですよ。今は危険だから極力外へ出ないように広報する、給水車が一軒ずつ廻るとか、戸別にガソリンチケットを配って順番を確保するとか、危険な状況を少しでも回避する手段が何故とられなかったのでしょう。政府行政が「危ないから極力外に出ず待機せよ」のお触れを出してくれれば、住民に多大の不便を強いることでも、また詳細に理由を知らされなくとも、従順な福島の人達は大して文句を言わずに付き従ったと思います。また、そうやってでも、政府行政には国民を危難から救う責任があるはずだと思うのです。原発の地元の自治体とその住民は、爆発のその翌日には早速に放射線の影響の軽微な県外等へ移動しましたが、常々原発事故の恐ろしさをよく知らされ、きっと一番に逃げろと言われた結果であろうその行動がいかに非常事態であるかを裏付けているのでしょう。


(福島の重くそして遠い課題)
近年地方都市においてもマンション生活が身近に根付いて来ており、働き盛り世代や若者には圧倒的な支持を受けている点は大都市とそう変わりません。

従来地方でのマンションは、金満とまでは行かないまでも高額所得者層の持ち物であるという認識がありましたが、不動産バブル期を終えてそうした年代層は高齢にさしかかり、今後マンション管理の担い手の世代交代をより推し進めなくてはなりません。

一方、たとえ微量でも放射線を浴び続けることは、若年世代、特に乳幼児には深刻な影響を及ぼします。体内被曝の不安を深刻に受け止める親達の中には、子供だけでも、そして母親も影響のない遠い地域へ転出させる動きが広がり、福島市内から明らかに子供の姿が減っている悲しい状況です。放射能が怖いからもう住めない、借り手もいないから売ってしまいたいが買い手がない、こどもを守らなくてはならないからとにかく福島から逃げ出す、こんな周辺状況なのです。これは、役員の成り手不足でこの先の管理組合運営に支障が生じるなどという生易しいことではなく、マンション住民が享受する財産価値が一挙に失われて行く非常事態です。大震災はありえない、否あってはならない映画のような天災でしたが、最後の備えがなかった原発事故という人災のために、延々と営まれて来た自然豊かな福島の生活が奪われ、営々と築き上げられて来た大切な資産があっという間に失われて行くとしたら、これは正夢とは思えません。

原発の水素爆発から数ヶ月経って、福島市内では学校・公園等の表土の入れ替え、高圧洗浄機を使った公共建物や道路の側溝の洗浄を自治体主導で行う動きも出てきており、実施後の放射線数値は半分以下に下がるようです。町全体で本格的に除洗に取り組めば、何とかなりそうな雰囲気も伝えられます。しかし、いわゆるホットスポットとして数値が特に高い地域の指定が進み、また原発からの放射能漏出も依然止むことなく続き、今まで把握されていなかった、或いは目を反らしていた厳しい現実が身近にあることが次々と明らかにされて来ており、福島がこの先一体どうなるのか、市民がどう行動したらよいのか、誰にも明確に答えられません。避難者の受け入れや震災後の建物復旧やらで慌ただしく動いていた間は、ジワジワと迫り来る住環境の崩壊や、放射能汚染に嫌気をさして有力企業が逃げ出すといった地元経済の決定的なストップ状況にまではなかなか思い至りませんでした。もはや、福島は広島以来の、広島を超える、人類が原子力利用に失敗した悲劇の代名詞となることは間違いありません。TV等では賠償金の話題が盛んに取り上げられたりしていますが、私達が望むことは、農作物や酪農、水産等で培ってきた生業の地を返してほしい、未来を託すべき子ども が発ガンにつながるような汚染状況を一刻も早く無くしてほしいということに尽きます。

毎日、新聞紙上やTVでこうした話題に明け暮れ、近所から若い母親とこどもの姿が少なくなり、みんなの口端に最初に上ることが誰々がいなくなったなんてことですから、ますます深刻になって行く福島の閉塞状況に向き合うことにも厭いて絶望感に陥ってしまいます。気の利いた人の親なら、わが母子を汚染のない所へ逃がすことを第一に考えるものです。当マンションでも、小中学校の夏休み以後明らかに、若い母親と小中学生の子どもの姿が減っています。福島は大丈夫だから、マンションに住むのは不安がないから、もう帰ってきてもいいよ、と仕事のために残った父親は早く言いたいんです。そのためにできることは何でしょう、個人の力でどこまでのことができるのでしょう。

現在、当マンションでは放射線測定器を購入し、管理組合が共用部分の放射線量を毎日測定して、住民向けに掲示しています。発注してから納品まで2ヶ月余りもかかった測定器は10万円強のいわゆる簡易測定器ですが、自治体が使用しているものと同じ、精度に信頼が置ける日本製で少数第3位まで測定可能なものです。集合玄関、ホ-ル、共用通路、ゴミ置場、駐輪場、プレイロット、歩道上等、当マンションで生活して行く上で毎日利用する場所が測定対象となります。勿論、ル-ル作りをした上、各居住者にも自室の測定のために貸出をしています。マンション周辺の戸外は、新聞紙上等で発表されている数値と大差ない環境ですが、一歩マンション内に入れば、コンクリ-ト効果で放射線量は 0.1μsv/h前後と大変低い数値に止まります。私達の目指すところは当マンションが安全に暮らし続ける環境か否かを数値として確認し、その情報を住民に提供することにあります。一歩外へ出ればマスクをしたり帽子を被って急な雨に備える必要のある放射線レベルにある福島の現実ですが、幸い自室を含めコンクリート住宅内部はこれなら何とか住み続けられると思える範囲です。

今後、否が応でも福島のマンション管理のあり方が変わる、つまり放射線対策にいかに取り組むかが管理組合の大きなテ-マになって行くでしょう。

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