当サイトは東日本大震災を被災したマンション管理組合関係者(マンション居住者、管理組合理事長・役員、管理会社担当者、管理員、工事担当者、設計事務所、マンション管理士等)の体験談を紹介しています。
皆さんのマンションにおける、今後の大規模災害対策の一助となれば幸いです。

トップページ > 体験談 > A-03 宮城県多賀城市Cマンション・管理員の体験談

2011/10/20

A-03 宮城県多賀城市Cマンション・管理員の体験談

取材地:宮城県多賀城市
取材日:2011年7月19日

私は、午後2時46分に地震が発生した時は管理事務所におりました。地震と停電を受けた最初の行動は、エレベーターの停止に伴い中に取り残された住人確認をするためのエレベーターの非常電話でした。しかし、非常電話は不通だったため、非常階段を走って登り、各階のエレベーターホールを確認、停止場所に行き、かごの中を確認しましたが、幸い誰も乗っていませんでした。

停電のため館内一斉放送が出来ず、また、インターホンも使えないため、最上階の9階より順に各戸の扉を叩き避難要請を行いました。その際住民より、扉を開けて避難するのか、閉めて避難するのかの質問を受けましたが判断が付かず、ご自分で判断して下さいと答えました(現在でもこの判断に疑問を感じております)。

――扉を開けて避難するのか閉めるのか聞かれたんですね?
そこは聞かれても、なかなか返事に困りました。そこは自己責任でということで案内しました。余震でドアが開かなくなる可能性もありますし、ドアを開けてますと何か盗まれる可能性があります。どっちが良いのか、今でも分からないですね。

地震当時にマンションにいた住民のほぼ全員を隣接する公園に避難させました。1戸は病人が居るので避難できないと拒否、その時間にはいつも在宅している1戸は、その日は不在でした。避難完了後、屋上の高架水槽の施設を確認したところ異常はありませんでした。

70X号室、60X号室、50X号室、またその下階までの水漏れを発見し、8階のメーターボックスを開け、水道のメーターの回転がある水道の元栓を閉め、水漏れが止まるのを確認しました。

マンションの住民には年配の方が多いので、避難させるのに近隣の避難所の小学校に救助を求めに行きましたが、そこも大混乱していて無理と思い、市役所の職員に、住所、マンション名を伝え、高齢者が多いので避難の援助を要請しました。後で行くとの返事はありましたが結局来ませんでした。

このマンションに津波の到達はなかったですが、橋を渡って少し先まで来ていました。しかし、この間は本当に情報が入らなくて、住民の方が持っている手回し用ラジオでちょっと教えてもらえるだけでした。そういった津波の情報は全く分かりませんでした。防災無線が聞こえたかどうかもちょっと記憶にないですね。

港の方でタンクが爆発して燃えていました。その煙がこのマンションまで来ました。爆風の為にこの辺りに全部テープを張って、この辺全部避難したんです。しかし、避難する場所っていうのがなかなか無い。避難所に行っても、全然対応できないっていうような状況でした。歩いて避難所を全部探したんですが、やっぱり対応できない。避難している人がいて、多数の市役所の職員がいるだけで、それ以上は何もできていないっていう様子でした。

マンションに戻り、余震が少なくなってきたので、マンション1階の集会室に居住者を収容しました。倉庫にあったカーペット、ロウソクを探し出し、居住者の反射式ストーブ1台を借り、その部屋にカーペットを敷いて、年配の方とか子供さんが暖をとりました。灯油は在庫があったので、それを利用しました。その間も携帯電話の緊急地震速報を受信の都度、避難を繰り返しました。その日の食事、飲料水は各自が持ち寄り、分け合って食べました。

どうしても食べ物が入手出来ない住民もあり、住民より管理人に頂いた、おにぎり、カップ麺等の食料品を譲りました。管理人は余震の都度おびえる住民を安心させ、また、深夜の1時2時より朝方にかけて、仙台より徒歩で帰宅する住民が多かったので、管理事務室にローソクを立て住民の帰りを迎え、家族の無事を伝え、集会室に案内しました(真っ暗で見えないため)。

当日は停電したままで、水は高置水槽に残ってる分が少々使えたのですが、水漏れで大分無くなっていました。翌日、3月12日からは、市役所より飲料水の配給があり、住民の方々とバケツリレーにより、1日一世帯20リットルを配給しました。3月14日電気が復旧したので洗濯機用のポンプを購入し給水作業を行いました。
――場所によっては、マンションに近所の方が避難してきたというお話もありしたが。
地域の方は来なかったけれど、マンションの住民の方の身内の方が結構来ましたね。被災してる方の。それで一時2人、3人家族とかが大分増えました。意外に身内が近所のアパートに住んでいたというのが多く、津波で家が流されたとかいうのがありましたし、結構、数日間いたと思います。

私が一番困ったのが、会社との連絡が取れなかった事です。何回電話してもだめですし、携帯電話のバッテリーもなくなって。理事長、理事の皆様も仕事で居なく、ラジオ等の情報もなく、全ての行動を自分一人で判断するのに苦労しました。携帯電話は、住民の方が車につけるやつを貸してくれ、やってもらいました。貴重なガソリンを使って。すごくそういうことに協力してもらいました。

管理会社に連絡がついたのは、日曜日でしょうか。避難所の体育館の公衆電話だけが使えたので、かけに行ったんです。しかし、結構ズラーっと並んでるものですから、いつ話せるかわからないので、諦めて帰ってくる時でした。ちょうど支店長とフロントマンが自転車で来たんです。国道45号線の方から名前を呼ぶんですよ。

支店長と担当のフロントマンが自転車で、2人でペットボトル20本積んで来たんですよ。びっくりしましたよ。もう車でなんて来れない状況でしたが、自転車で来たのはびっくりしました。安心しました、顔見ただけで。顔見ただけで違いますから。口で言っても何もできないと思うんですよ。でも、顔見ただけで安心できますから。

――ご家族も心配されたのでは?
3日間不眠不休で、自宅には電話が通じなくて安否情報が入れられなかった。日曜日に帰ったのかな?住民一人の方が、私を心配しガソリンの少ない中、自宅まで送ってくれました。家族と連絡が取れず心配していたので涙が出るほど嬉しかった。家族は全員無事でした。

――地震の前から管理組合の活動が活発だとかは。
特に無かったです、そう言ったものは。地震をきっかけにですね。けが人も病気の方も一人も出なかったのですが、ただ2、3日行方不明の方が2、3人いたんです。避難所と言うか、最初別の場所にいたそうです。買い物に行ったショッピングモールの3階で避難してたという方が1件。連絡が取れないもんですから。残っているご家族の方が心配して探したものの、なかなか見つかりませんでした。もう1件は体育館に居た方で、その方は年配の方で1人暮らしをしている方でした。その方も無事でした。

ライフラインの復旧では、電気の復旧は早かったです。3月14日に電気が復旧し、3月17日にエレベーターが復旧しました。水道は時間がかかりまして、3月31日。水道は4月の大きな地震でもう1回止まりました。4月5日にはガスの復旧です。

――地震に対して備えておくべき物は?
備蓄としてどうしても必要な物品は、ソーラー、手回しラジオ、カンテラ、手回し用の充電器、一日分の飲料水、一日分の食料品、毛布一世帯1枚、反射式ストーブ、ローソク、マッチ、単1乾電池、卓上コンロ、卓上用ガスボンベ、ブルーシート、ガムテープ、バケツ、これらが特に必要と思いました。

ラジオはやはり手回しか、ソーラー充電式のものですね。乾電池も5年ぐらいしか持たないみたいです。テレビを見ていたら、水に入れると一気に使える電池があるらしいです。後はロウソクですね。ロウソク・マッチが無いと不便というか。

――震災当時、このマンションに配置されて5ヶ月だったとか。
私は前職がホテルマンなんです。ですから、避難訓練とか何かっていうのが、毎年2回づつ訓練してましたので、そういう対応は割りとスムーズにできたと思います。体が自然に動きました。前職が何かで結構違ってくると感じます。

――マンションでも避難訓練をやっておいた方が良いと思いますか?
それもちょっと難しい面があります。日中だと多くは女性、子ども、年配の方しかいません、かといって夜間というのも、私達はいませんから難しい面もあります。避難訓練は、マンションの場合は難しいのかなぁという感じです。夜間の訓練も、管理組合だけでやる分には可能ですが、参加者もどれだけ出るのかなぁという感じです。

――行政でこんなサポートをしてくれたらなというのはありました?
全てが足りなかったので、全てをサポートしてほしかったです。誰も来ない、市からの支援は一切何もない。市役所の職員に話しても、「私では分からないです」で終わり。多賀城市は一番だめだったんじゃないのかなぁっていう感じですね。

――今回の一番の苦労は?
住民の方の協力が凄かったので助かっていました。1番の苦労は水だったんです。水が受水槽にあったので、それをみんなでバケツで汲んで、バケツリレーをして配ったりしたことです。その時は住民全員で、理事長さんまで出てきてやって下さいましたので、すごく助かりました。

受水槽のふたも鍵は閉まっていましたが、鍵が管理されていたのでそれで開け、壊さずにやりました。非常用の水栓があると便利だと思いました。

――これから建物を直そうという計画は?
今はまだ資材や人員の問題でちょっと厳しい状態です。もう少しかかると思います。秋には工事をしたいという事です。ただ、被害が酷いところ、そこだけは緊急で先に直します。今月いっぱいくらいです。建物の被害状況は、建物の壁の剥離、亀裂が多数あり、特に玄関・窓付近に集中しています。

また、3階~9階の建物接合部分(エキスパンションジョイント)に被害が多数ありました。エキスパンションジョイントのアルミパネルが取れて、ずっと下まで見える状態になりました。屋上まで全部飛びました。住民の方は、皆さん我慢して辛抱していると思います。本当はもっと早くやってほしいと思っているんですけど、状況が状況ですから、辛抱している方もいると思うんです。

地震後の一番最初の理事会は4月に開催しました。地震被害の報告会・説明会を居住者向けに開くのは、これからです。総会もこれからです。ただ、地震保険には入っていて、罹災証明書も地震保険も一部損壊で、そんなに被害は大きくないので、工事の内容やいくらかかりますという話を臨時総会で決めます。

地震を機会に意外と信頼関係がでてきた部分が結構あるんですよね。それまで、結構意見の多い方がいらっしゃったんですけどね。地震以来はあまりうるさいことを言わなくなったんです。一緒に暮らしたと言う、あれがありますからね。今までは、一戸一戸は全部別々という雰囲気だったんですけれども、この部屋で1週間近く暮らしていますので。この部屋は4月まで、学校が始まるまでは開放していました。子供さんの遊ぶ場所が少ないため、開放して、春休みが終わるまではケアしてほしいというご意見でした。

不幸中の幸いにも、住民にけが人、病人が一人も出ず、全員無事が確認できたこと、地震後、住民との信頼関係が深まったのが一番うれしい事でした。

――大変貴重なお話をありがとうございました。

(聞き手:鈴木裕人 マンションサポート福島代表・マンション管理士)

← prev next →
Copyright Obscura 2012. Design by elemis. All rights reserved.