当サイトは東日本大震災を被災したマンション管理組合関係者(マンション居住者、管理組合理事長・役員、管理会社担当者、管理員、工事担当者、設計事務所、マンション管理士等)の体験談を紹介しています。
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2011/11/20

B-04 宮城県仙台市Hマンション・管理員の体験談

取材地:宮城県仙台市
取材日:2011年7月25日

――この度の被災についてお見舞い申し上げます。さっそくですが、地震の瞬間はどちらにいらっしゃったんでしょうか?
 平日ですので、通常の業務中でした。普段、1日の大半は各階の廊下周り、居住前の廊下周り、格子、階段とか玄関エントランスの清掃業務をしているのですけど、私は、北館と南館がある内の南館の2階で地震に遭遇しました。

 この建物は築15年で8階建て、住戸数は約50戸です。建物で一番ダメージ受けたところは、塔屋というエレベーター塔です。このエレベーター塔が1回目の地震でかなりダメージを受けました。地震のその時に、私はそのエレベーター塔の近くの廊下にいたものですから、上からコンクリート片がバラバラバラと落ちてきました。7、8階からヒビが入って、壁が斜めになったんです。その破片が上から落ちてきたので恐怖感がありました。

 棟屋の最上部の囲い壁の中に給水タンクがあったんです。この給水タンクは、今は改修して仙台市の水道管から直接受水していますので必要は無くなり、その当時はもう使ってなかったんですね。だから空タンクを上に置いていた。そのタンクが動いたのか、暴れたのかちょっと分からないですが、その壁面がダメージを受けて、東側に傾いて、二回目の地震の時にそれが崩落した。かなり危険な状況でした。応急危険度判定でも赤い紙。

 罹災証明では全壊です。大きなダメージ受けたのはエレベーター塔ですけれども、各住戸の中はもう足が落ちそうで、ベランダ側の窓の隣の壁が粉々になって、外が見えるとかベランダの角度が変わってるとか。傾斜が出ています。地震保険も入っています。全損評価ですね。理事長がおっしゃってました、不幸中の幸いです。

 こちらが南棟で向こうが北棟なんですけれども、2棟あるんです、それを繋いでいる渡り廊下として、ブリッジをかけてるんですよ。

――エキスパンション・ジョイントですね。
 それが暴れ出しまして、上から下までダメージを受けて今は大分調整してもらったんですけど、まだ通行はできないですよ。この北館から南館へ行けない状態。エレベーターも使えない。でも幸いにもここには外階段がありますので、皆さん屋外階段を使って生活されているんです。高齢の方も結構いらっしゃって、非常に苦労されているという。

――エレベーターは今も動かないんですか?
 今も無理ですね。6月頃にエレベーター塔の中のカゴ、モーターの全てをとりあえず撤去して。今はフレームを直してコンクリートを構築しているという段階。フレームが歪んじゃって、カゴが途中の4階で止まっていたようです。その時は、幸いにして誰も入っていなかったんです。偶然というか、不幸中の幸いだった。私もその2階で揺れに出会ったんですけれども、動けなくて、エレベーター塔の軋みとエキスパンションの廊下、渡り廊下の軋みでちょっと青ざめましたけどね。初めての経験で登るにも恐怖感。

 渡り廊下の揺れははっきりと見えますし、エレベーターの崩落のコンクリート片がパラパラと大きな物から落ちて来て、それを目の前にしてね、庇がありましたから、当然直撃は受けなかったんですけど非常に怖かったですね。この南棟は1階も住戸になっていて、駐車場ではないんですね。向こうの北棟は1階の部分が駐車場になっていますので、だから多少、揺れの違いはあるのかなって。どちらかというと、このエレベーターの周りと、このベランダ関係ですね。廊下側、ベランダですね。この辺のところがダメージを受けているんですね。

 地震は長く続いて、揺れが収まるまで2階で動けなかったですね。動きようがなかったですよ。普段の地震と違うなという感じで。

――在宅の居住者の方は結構いらしゃったんですか? 
 居たと思うんです。ただ、昼間はいらっしゃらない方が多いのでね。それでいったん私としてはドアを叩いて回ったんですが、ところがほとんど反応がなかった。閉じ込められてるとか、呻きとかそういう声を聞けなかったというよりも耳に入らないぐらいの状況です。通勤とか、勤めとか、買い物とかいらっしゃったんでしょうけども、実態はつかめなかったです。とりあえずドアを叩いて、返事を待って、ほとんど居なかったんですけどね。これはどういうものかなと思っていました。

 避難してくださいという事も、叩いて回ったんですけどね。一般的にはそれぞれが避難場所を決めて、どこどこの場所とか多分決めてはいるんでしょうけども、そこに集まるという事はできなかったですね。

――これまで取材したマンションでも避難先に関してはいろんなパターンがあるようですね。
 一応決まっているのはこの近くの小学校ですか、避難所という事は聞いてはいますけども 部屋に居られる方もいるし、小学校の避難所に居る方もいる。大方は避難所に行ったと思うんですけれども実態がつかめないという。

 他のマンションに聞いたら、やっぱりちゃんと避難先を把握しているところもあるんですよね。それは館内に避難場所があって、そこに集まれたところは、やっぱりお世話もできるというか、チェックもできる。ここは、この中で避難場所と言うのが無くて、公的に定められた避難所へ行くというルールだけは決まっていたんです。

 震災で、正直に言って初めての経験です。私も去年の6月からこの仕事をするようになって、ここに配置されて今でちょうど1年。よそのマンションは、住民の方がマンションのその中で避難する場所を固めて、決められてルール通りにやられたというんですけれども、ここはもう正に各個人の皆さんが独自に判断してやられた。それが管理員としてこれはまずかったかなと。

――お住まいの皆さん各自で判断して動いて、皆さんで情報を共有するような事は難しかった。
 多分、私が慣れていなかったからだと思います。実際に、ドア叩いて、回ったけれども反応が無い所は既に避難所に行っているとか。実際問題、顔を見ていない人もいた。だからここに留まって、窓口としては管理会社があるので、そことやり取りしながら指示を受けていろんな作業をしたという、そんな感じですね。

――ライフラインはどうでしたか?
 地震の瞬間ブレーカーが落ちたんです、急に全部。2日くらいはつかなかった。水道はここは仙台市の水道ですので、それは問題なかったですね。タンクで上げて下で水道を管理されてるんですけれども、各部屋に直圧で水が行っているもんで断水はなかったです。ガスは止まりました。ガスの業者に行きましたけど、時間はかかってましたね。ガスは結構遅かった。一番は水がありましたので助かりました。

――管理会社とは、いつぐらいに連絡取れたんですか?
 震災後にまだ携帯がかかりましたので、結構早かったですね。金曜日には連絡がついた。次の日から土・日に入りますので、出勤するかしないかと協議して、結局は、出勤しなくていいよということになりました。

  ――ご自宅は大丈夫だったんですか?
 私のところは半壊です。一戸建てで半壊。自宅の片付けはしばらくはほったらかしです。家にはケガ人もなかったですし。物が壊れたとか、ひっくり返ったとか、そういう事はありますけれども、部屋を2箇所あけてそこに住まい、住む拠点はリビングですけれども、そうやって生活していました。マンションの方を重点的に皆さんにいろんな情報を広報しなくてはということで、その役割があるのでやってました。

――ご自宅は置いておいて、マンションのために?
 自宅の状況は確認したので、まあいいかなと言う事で。その後指示されたのが、安否確認と連絡です。今までの連絡システムあるんですけれども、それに基づいての電話のやり取りです。状況把握と居住者が今現在どこにいるのかという事をやりました。

――それで皆さんと連絡ついたんですか?
 当初はついたんですけれども、まったく後はできなかった、通じなかった所もありますね。多分、携帯を放置されたままとかでしょうか。とりあえず、携帯の番号は全部網羅していなかったので、マンションの自宅に電話しても通じない。携帯がすべてですよね、その後そういう事にお許しを得て、携帯番号を教えていただいた。緊急連絡の時だけ使うという事で。もう今回は状況が厳しかったから、意外とあっさりと携帯を教えていただきました。9割以上は教えていただきました。

 普段は、管理組合の理事会や管理員さんに厳しいご意見が多い方も、これだけの被災をして、そんなに意見をつきあわす必要ないですよね。お互い同じ苦労をしてるので。皆、仲間意識になって来るんですよ。

――ライフラインが早期に戻ったという事で、地震直後に居住者の方が苦労したこと等は無かったですか?
 皆さんどこもネットを持っていらっしゃるので、それで情報を得ているようでした。まず一番目は、親族が近くにいるという方は、皆さんそこへ身を移されました。いない方は、この近辺にアパートを借りて、もう契約してね。そこに仮住まいして、そこを拠点に今は通いながらこちらを整理している。アパートを借りながら、ここのマンションの部屋を整理する。そういう事をかなりの方が、やっていましたですね。

 始めのうちはこのマンションにいたのでしょうけども、余震もあったのでこの近辺で問題の無いアパートを借りて、そこを仮住まいにしながら、ここの自分の家を見守る、あるいは整理する、罹災証明などのいろんな手続きを取るとか、かなりの方が近 くの身内とか、そういうところで予定を立てながら行動されていましたですね。

――今は寝泊りはこちらでされてるんですか?
 4月頃でここに50人位いました。半分ぐらいの方は、4月には戻ってましたね。それ以外の方はアパートを借りて、通うという。生活の拠点をちょっと移してね。もう数名ぐらいになってますね。かなり戻ってますね。

――食料品の調達はどうでしたか?
 食料品の調達は結構早くからスーパーとかね、ああいうところもオープンしてましたのでそんなに苦労しなかったようです。初めのころは苦しかったんでしょうけれどね。まあ、どこのスーパーでも列をなして買いましたけれども、その事もいち早く皆さん情報を持って早く並ぶとかね。

――情報を交換していたんですか?
 そのネットワークは皆さんでやってましたね。

――そういった方法は、特に何か掲示板を作ったという訳ではなくて?
 掲示板はここからの発信する掲示内容だけです。要は居住場所、どこにいらっしゃるかというアンケートを取るために連絡くださいとか、しばらくの生活の拠点はどこにしますか、とかそういう事の情報を取り入れるという事。その食料品がどこで行ったら買えるよ、とかそういう情報を住民の方から聞いてそれを掲示する、そこまでは私はできなかったですね。エレベーターも使えないし、住民の方もどこに行ってるのか検討がつかなかったんで。一番住民の皆さんにご迷惑かけた管理員かも分からないけれどね。

――すでに補修工事に取り掛かっていますが、理事会は地震の後すぐに対応できたんですか?
 そうですね。かなりやりましたね。そして、それに対する罹災証明とか、そういう委任状ですね。そういう業務をするにあたっての一応取り付けて、速やかにやりましたですね。かなり早かったです。

 臨時総会は6月10日にやってますね。理事会は毎月2、3回は行っていました。理事長もそんなに遠くへは行かないで、やっぱり親族の家へ行ってらっしゃって、定期的にこっち来られました。理事長がもうすごい先頭に立ってやってらっしゃいましたね。今はもう、管理会社がバックアップしてますので、それと理事長がタイアップしてます。罹災者の応急修理の手続きとかね。

――住宅の応急修理制度も始まりましたね。
 それに関しても管理組合として、罹災を直すための施策をいち早く打ち上げましたですね。そこのところは他のマンションはどうかは分かりませんけれども、結構うまく住民の皆さんが納得するように進めてました。

 いち早く共有部分のこのエレベーターを手がけて、その業者を決めて。それから、各区分所有者さんの住戸部分に関しては、応急修理の申請書をとりまとめて。管理組合がリードしながら、まとめていくという事をやってらっしゃいますね。

 ここに、もともといらっしゃった方で、転勤やら子供さんと出ていかれた方が2軒ほどありまして、もう1軒は震災で遠いところに移られた方もいらっしゃるんですが、そういう方たちへの連絡もちゃんと定期的に取りながら、再興のための情報提供をしながら、住民の意識疎通を図って進めていらっしゃいますね。例えば保険関係、損保とかですね、ああいう関係の詳しくは分かりませんけれども目鼻がついたのではないかな、雰囲気としてね。

――お金もある程度安心できる計画でないと、皆さんも賛成しにくいでしょうからね。
 住民の方は根拠が欲しいですからね。これに関わる問題は、自分たちがどれだけ負担するのかという事、それが一番恐ろしくて。また、自分たちの共有部分だけでなく、専有部分でまた一つかかりますので。

――こちら全壊の判定出たのは、もう一番最初から全壊?
 掲示板にも書いているのですが、最初、応急危険度判定では黄色になったんですけど、それをまた判定してもらったんですかね、赤になってましたね。罹災証明はもちろん全壊。役所の方がずっと回られてその辺の評価と保険屋さんの評価が当初ちょっと違っていましてね。無茶苦茶きついですよね。でも、全損になりました。内部は相当エレベーター以上にインパクトがあったんじゃないですかね。

――地震に対する何か工具を備えておいたとか、そういったような対策はされてらっしゃいましたか? 
  正直言って、そういった考えが何も浮かばなかったですね。もう突然でね。工具というものは例えば、ドアが開かないというのは、所詮無理ですよね、鉄のフレームですので、もう専門の人じゃないと。その扉が開かないという事が多かったんですよ。開けた方、開けたら怖いから半開きにしていた方は逆に閉まらない。そういう苦情、問題が多々発生しました。今でも修理するとこはいっぱいあるんですけどね。ハンマーとか、特殊な工具は日頃要らないですもんね。

――備えておいても実際地震の時には使えないですか?
 使えない、素人ではね。ドアを直すのを見てたら、我々が驚くような事をしますからね、本当に叩きますからね。こんなことして大丈夫なのと。それぐらいしないと駄目ですし、綺麗ごと言ってられないから、とりあえず叩いて開けてあげるとか、中にいないかどうかチェックするとか、そういう事も大事でしょうし。

――震災時の管理員業務について教えてください。
 その辺については日頃は何も言われなかったですね。ここに勤務するにあたって、管理会社から教育を受けたのは、日常の活動マニュアルですね。正直言って、これだけの震災があって、火災とかのマニュアルと同時に、定期的な訓練が必要だなと、これは大事な事なんだなと改めて思いましたね。

 私は一年ちょっと過ぎた段階で、マンション管理員のマニュアルの中に消防訓練とか、あるいは震災のための訓練をリードする立場にあるかどうかちょっと分からなかった。当然管理組合の理事長とかその役員さんの中に消防担当とかの方はいますが、自分としても、初めての経験だからどう立ち居振る舞っていいのか分からなかった。

――今回は地震でしたが、火事があった時の防火管理者とか、管理組合では決めておくんでしょうけども、本当にそれが機能するのかという事ですよね。
 それは、手取り足取り訓練をやってもらいたいなということですね。管理会社がリードし管理組合がやるんだと思うんですけれども、定期的な年に1回の避難訓練をやっていますが、私が1年間勤務した去年の6月からの1年間はちょうど訓練が無かったんですよ。

――他のマンションの管理員さんに対しての心構えとか備えについてのアドバイスは。
 やっぱり初動動作というんですか、いち早く立ち上がれるその仕組みというのをまず作っておかないといけないです。それができてる所もあるでしょう、でも大方のところはできていない。

 初動と言うのは、一番最初の避難する時。例えばの話が今言いましたように、管理組合で防災時の理事会と連動して動くという事にするとか。その辺の動きは以前はやってらっしゃるとは思うんです。居住者の皆さんは小学校へ避難できた訳ですから。ただ、私は連動できなかった。

――管理室の前を通らない屋外階段から出て、避難所にそのまま行ったら、管理員さんは分からない訳ですしね。
 そうです。だからマンションに誰も居なかったはずですよ、外へ出た後なんで。それで、初期動作として、ただ管理室に居るよりも、住戸を確認して下さい、という指示をもらってやってたんですが、ほとんど反応が無かったのは、既に住戸を出て避難されていると。地震の後に皆さんがどうされるのだろうかという予測までは、できていなかった。正直な話。これは嘘偽り無いです。自分も何をしたら良いか分からないという、そういう状況になったんですよ。経験が無いから。そういう意味ではとてもやり残した感があります。

――その他に皆さんにお伝えしたい事は。
 割とマニュアル化されて、行動パターンはいろいろあろうかと思うんですけれども、一般的な避難経路ですとか、そういうものを参考にさせてもらいたい。私どもも正直言って、通常の業務での心得は何だと書いてあるけれど、今回のような大災害時の心得は何も書いてない。そういう意味では常日頃身につく事をやっておけば良かったなあと。ただし、それはいざという時に役立つだけでなく、絶対に死守しなければという事もあるんだという部分でね。それを集約して、頭に刻み込まれるようなキャッチフレーズをね。

――極端に言えば、マニュアル20ページとかは無理ですね。
 そんなの無理です。日頃パッと目について、ああそうだなこういう事あるんだな、というのを意識しながら、実際にそれが行動に移って行くと思うんですよね。判別は難しいですけれども。今回はほとんどできなかったですから、それを悔やんでいますね。

――大変貴重なお話をありがとうございました。

(聞き手:鈴木裕人 マンションサポート福島代表・マンション管理士)

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