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2011/11/07

B-02 宮城県仙台市Fマンション・管理員の体験談

取材地:宮城県仙台市
取材日:2011年7月25日

――この度の被災についてお見舞い申し上げます。地震の当日は、どちらにいましたか?
この管理室にいました。管理員室の揺れの具合が普通の地震と違っていて、とりあえず管理室から外に出ました。若干揺れが収まったのを確認してから段階で上がって、12階から皆さんを誘導するような形で、私と理事長とが手分けしながら、皆さんにドアを閉めないでドアを開けたままの状態にして降りてください、と伝えました。

電気も止まったし、エレベーターは電気に関係なく止まってしまっていたので、階段で皆さん降りたんです。年配の方は階段で降りるのが怖いから、エレベーターを使うと言ったんですけど、エレベーターは使えないから、と皆さんで協力して下まで降ろしました。

隣が消防署なんですが、避難所にはなっていなくて、でも消防署の方に話しして、中に入れていただいて毛布とか用意してもらって。ここだけでなく他からも来ていて、皆さん少しの間避難してました。人数的には4,50人くらいでしょうか。

――このマンションの世帯数は? 
建物は12階建てで、世帯数は52戸です。その他に店舗があります。当日の日中は、4分の1ぐらい。15世帯ぐらい居ました。

消防署に1回逃げてから戻って来て、12階から理事長と各部屋を一応確認しに行って来たんですけれども、1人だけ、70代の女性の方で、救えなかったと言うか分からなくて1日部屋の中にいらした方がいたんですよ。玄関の入ってすぐの台所にある冷蔵庫が倒れて出られなくなってて。玄関の鍵も開いていなく分からなくて。翌日から勤務日でない土日だったのですが、一応私は土曜にも来たんだけども、その時にも分からなくて。

結局その方はベランダから助けられたんだけども、我々としてもちょっとそこら辺が一番残念だったというかね。

――3月11日の夜はどのような状況でしたか?
私も夜は一度来たんですけども、消防署から当日マンションに戻っていたのは3軒か4軒ぐらいでした。とりあえず皆さん、近くにある3箇所の小学校に避難した方が多かったですね。避難所に避難したのはせいぜい2、3日くらいですかね。3日目くらいから徐々に皆さん戻って来て。幸いにもここは電気もすぐ復旧したので。

1世帯外国の方があるんですけども、その方はお子さんもまだ赤ちゃんが産まれたばっかりで、その方が避難所が長かったていうか2週間ぐらい避難所に居たんですかね。お子さん小さいし、旦那さんの会社自体も事務所メチャクチャになったんで、もう仙台の事務所は閉めちゃうという事で。奥さんと子供さんは先に東京に戻って、ここにはもう住まなくなったんですけどね。

あとは、一人暮らしの人は同じマンションの人でも何人かで一緒に2週間ぐらい共同生活をしていたようです。

――ライフラインが戻ったのは早い方だったんですか?
電気は翌日から通りまして、水道は全然止まらなかったんですよ。エレベーターは動くようになったのは4日目ですか。おかげ様で早めに運転させてもらって。ガスは都市ガスで、ガスの元がやられたので。ガスは4月6日頃、約1ヶ月ぐらいかかりました。

住んでる方たちもすぐ戻って来られたし、水もあったから、そんなに困った事は無かったですね。強いて言えば、食料品の買出し。近くに生協があるけど皆さん並んで極端な話、一人何個まで、と。100m、200m並んでお店の先から端まで並んで。結局1週間から10日ぐらいは限定で一人10点までと言う事で、品物も1点は1つだけ、同じもの10個は駄目、と。皆さん毎日並んでとりあえず食べる物を買うって。大分酷かったですかね。

水も電気もすぐに復旧したと言う事で、ここに仕事関係の部屋だけ持っている人で、自宅が別なところの人が、そちらの水止まっているので、水をこちらに汲みに来てたりしましたね。

地震の前はうちの方も高置水槽を加圧式のポンプに変える検討はしてたんですけど、皆さん今回の地震で水が使えたのを見て、早急に変更する必要はないんじゃないかって。ちなみに、ここから先に見えるビルですが、そのビルでは屋上の上の方にぽつんとたっているタイプだったので高架水槽のタンクの架台がポッキリ折れ曲がっちゃって。

――何か地震に対して、備えを準備されていたのはありましたか?
とりあえず地震の前に、非常用の防災グッズ、一式用のタンカ、ビニールの簡易トイレちょっとした非常工具、バールとかそんなものですかね。

今回は、玄関扉が変形したとか、そうゆう大きな被害はありませんでした。ただ、後で見ていただきたいんですけど各階の3号室系統のドアの左側辺りのところに大分亀裂が目立っていますが、ドアの変形やドアが開かないというまではなかったですね。そういう面からいくと、地盤や建物の構造自体が良かったのか。

この拡声器と懐中電灯は地震の後から備えてあって、これはもう前から、私が来て6年目なんですけども、その頃から拡声器とか懐中電灯等は備えてありましたね。今回は拡声器はそんなに使わなかったですね。メインの場合は館内放送できるので。館内放送もそれほど地震に関して使う頻度は無かったんですけども。

――管理員さんは当日はご自宅に帰れたんですか?
当日、私は夕方5時までの勤務なんですけども、皆さん避難した事を確認して6時ぐらいに、出たんですが、バスもその時はたしか無かったと思うんですよ。

当日は皆さんを避難所において来た段階で雪がちょっとチラチラ降ってきて。寒かったですね。私は仙石線という電車と地下鉄を乗り継ぐんですけども、当日は歩いて2時間30分くらいかけて帰りましたけどね。

自宅は多賀城のちょっと手前なのですが、多賀城の手前に中野栄というところがあるんですが、その辺まで津波来て、完全に皆駄目になっちゃったんですよね。

――ご自宅の被害は?
自宅の被害は無かったです。家から、1kmぐらい手前まで津波来たんですがね。その後落ち着いてから車で走ってみたら、45号線、仙台へのメインの道路あるんですが、両側1車線に車が重なっている状態で、まだ整理がつかない様な状態だったんです。

当日1km先まで津波が来てたっていうのはちょっと分からなかったですね。やっぱり、ラジオでもあれば良かったんですけど・・・・・・。中にはその日避難した人たちも分からなかったんじゃないですかね。その辺までに津波が来て、私も当日帰ってもそういう状態が分からなくて。何日かしてから、仙台新港辺りの新しい建物とかも全部やられちゃって、今でも再開していないところがほとんどですね。

――週明け14日から、普通に仕事に来れたんですか?
仕事に来たのは、結局仙石線の電車が全部ストップしてましたんで、私は仙台駅までバスで来て、駅から歩いて通勤して。帰りも仙台駅からバス通勤でしたけども。地下鉄も4月末くらいまで一部が止まってましたからね。やっぱり大変でしたね。

結局、45号線辺りも多賀城から向こう側がストップしてますから、朝は道路は車自体が少なくてそんなに混んで無かったですね。バスの本数もそれほどでもなかったですね。夕方がちょっと酷かったですね。

――マンションの理事会で補修の話は?
進んでます。地震の後の理事会は、地震の後4月に入ってからですね。今後どんな形で直すのかと。とりあえず共用部分をチェックしてもらって、部屋のベランダ、自分の部屋等をアンケート調査でやったんですよ。それを回収して、共用部分と部屋を6月半ば過ぎに業者が調査して、7月初めに金額が出たんで7月15日の理事会に資料を提出してもらって。大体の額が出たので、8月11日にもう1度理事会を開いて、そこで大体の中身を決めて、臨時総会です。秋には補修の工事やる予定で。

地震保険には入っていて、5%、一部損の保険金が出ました。

今まで何か工事やるというと、必ず何箇所か相見積もりを取って、比較してくれと言う意見が出るんですよね。でも、今回の場合はそれをやってると工事自体も遅れるだろうし、業者さんも嫌がるみたいなんですよね。

――福島でも競争入札とか見積もり合わせだっていうと、業者に逃げられちゃいますね。
うちにくれるのであれば、やると言う事なんですが、ただ見積もりだけ出したと言うことになると。今回は1ヶ所調査した業者に決めてもらうしかない状況です。

――地震の後、管理会社と連絡が取れたのは?
管理会社と連絡が取れたのは、フロントの方から私の携帯には翌日の朝。大丈夫ですかって。その時の地震の状態、マンションの状態をある程度話して、特別大きな損壊は無かったと言う事で、月曜から付近の方が2、3人来てくれました。

――地震後に何かお困りになった事は?
2度目の4月7日の余震がひどかった。その余震が木曜の夜で、管理室の非常ベルが鳴りっぱなしになったんですよ。ここのカギは私しか持ってないんで。理事長が消防署の方から音が鳴りっぱなしになってるから止めてもらわないと、どっかで火災が発生しているかどうかあれなんで、と。

その時は理事のどなたかが鍵を持っているという事はなかったんです。理事長から携帯に電話がかかってきて。一応警備保障会社の方には連絡をして来ることになってたんだけど、理事長もまだ来て日が浅かったのもあるし、津波などで警備保障会社の電話番号も書いてあるんだけども、なかなか連絡がつけられないって言うし。私も家の方から警備会社に連絡入れたんだけども、話し中とかで連絡がつかない。困ったもんだなって。車で来て、止めて。

そういう状態があったんでね、また緊急の時困るので、一応マスターキーを1個作って理事長に持ってもらう事にしました。

――他のマンションの方に伝えたいことは?
たまたまなんですけども、11月頃に一応避難訓練をやったんですよ。でも私はその日予定が入ったんで出れなかったんです。理事会やなんかで、避難訓練等をやっておいた方がいいんじゃないかって事で、避難訓練やったんですね。その何か起きた時はドアを開けっぱなしにしてすぐ出て避難してくれと言う事で、あと、階段を利用して役員の人が大体3階位置きにいて、そこから皆さん順繰り順繰り端から降りて来るっていう事をやって。

実際、避難訓練に参加したのは人数的に少なかったんですけども、意識的にやったっていう事は今回の場合も活きてきてるんじゃないかと思うんですよね。やっぱり最低でも年1回2回は、皆さん避難訓練を、と。でも、オーナーさんの人ですとまだ参加してくれるんですけれど、結構賃貸もあるのでね、賃貸の人にももう少し今後参加してもらえるような形にしたい、賃貸の人ともこういう災害時の事を考えていかないとあれかなと。

あと避難場所ですか。避難所はあまりバラバラにならないように。そこのマンションの人はここに、と分散しないでどこか一箇所に。今回は、皆さんが居住者同士お話できるような人と行きやすい所に行ったので。私たちもその後いろいろ聞いて、あの人はあそこの避難所に行ったとか、友人の所に行ってるという事を聞きながらやったので、分散したことで特に混乱したりと言う事は無かったのですが。

――最初に避難する時に、玄関の扉を開けておいてというのは避難訓練の時から?
特に消防署の方からは無かったんですけども、理事会があった時に、管理会社の担当者と理事長との間で考えて。ここの場合は、避難する時に皆さん閉めて行っても、ドア自体に異常があった所が無かったですから、開けっ放しにして避難しても、ある程度地震が収まって、さらに避難する時は皆閉めて行かれたと思うんですよ。

災害時のマニュアルはあらかじめ作ってありました、3~5ページくらいの薄いマニュアルですかね。

――貴重なお話どうもありがとうございました。

(聞き手:鈴木裕人 マンションサポート福島代表・マンション管理士)<

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